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複数名が読んだ本を記録するブログ。

梶谷懐・高口康太(2019)『幸福な監視国家・中国』

今回の備忘録は梶谷懐・高口康太(2019)『幸福な監視国家・中国』NHK出版。

 

ディストピア、データ資本主義、功利主義、行動科学、リバタリアンパターナリズム、公共性、中華文明。現代中国のありのままの姿を描写しつつ、様々なトピックを用いて社会的・哲学的考察を行ったのが本書である。本題に入る前に、極々簡単に関連トピックについてまとめておく*。

 

ディストピア

ディストピアとは、社会の悲観的な未来予想図である。ジュール・ヴェルヌ『20世紀のパリ』は1860年に科学と金融が支配する社会を、ジョージ・オーウェル1984年』は1949年に暴力装置のある監視社会を、オルダ・ハクスリー『すばらしい新世界』は1932年に遺伝子操作による人口統制社会を描いている。現代におけるディストピアは、一般に言って監視の行き届いた管理社会を指すことが多い。

 

データ資本主義

2017年、米誌エコノミストは「データの価値は石油を上回った」(“The world’s most valuable resource is no longer oil, but data”¹)という記事を出した。インターネット上のサービスを展開するGAFAのような巨大“プラットフォーマー”は、自社サービス上の顧客の消費行動・訪問サイト等の膨大な個人情報を収集・解析することで、的確なマーケティングに利用することが出来る。一方、Facebookが利用者の情報をデータ・コンサルティング会社ケンブリッジ・アナリティカに提供。ケンブリッジ・アナリティカは2016年アメリカ大統領選挙に影響を及ぼしたと疑惑をかけられ、廃業に至ったのは記憶に新しい²。彼らはFacebook利用者の属性から、D・トランプ支持派に親和性の高い人間を割り出し、効果的な選挙キャンペーンを行ったと言う。告発者の一人は、民主主義を“ハック”したと主張している。近年では、テック企業によるデータの濫用を恐れた人々によって、「個人情報の所有権」という概念が登場している。

 

行動科学

古くからフロイトをはじめとした心理学者らが人間の精神分析を行ってきたが、近年では神経科学と実験によって人間のありのままの思考様式を明らかにしようという試みが行われている。社会科学、人文科学、自然科学が合流した学際領域であり、近接学問として進化心理学社会心理学、実験経済学、行動経済学認知神経科学等がある。その結果、人間の思考には一定の傾向があることが判明しており、直感的な思考と合理的な思考の二つが働いているという二重思考過程仮説、複数の役割が分担して意識を形作っているという心のモジュール仮説、生得的に支持する道徳に偏りが存在するという道徳基盤理論等が提唱されるほか、様々な認知のバイアスが指摘されている³。

 

リバタリアンパターナリズム

行動科学で明らかになった人間の認知バイアスを、政策に活用することはできないか?この発想を元に始まった試みがナッジ(Nudge: 軽く押す)である。例えば、非合理的に現状維持を選択してしまう現状バイアスは、消費者がより良い携帯契約に変更する機会を減じさせている。そこで、携帯各社に解約金の撤廃や透明性の高い契約内容を求めることで、消費者により良い意思決定を促すことができる。より簡単な例として、男子トイレの便座に描かれたハエの絵がある。ナッジの核心は消費者の選択権を維持しながら、より良い方向を自発的に選択するよう促す点にある。行動経済学リチャード・セイラーらは、ナッジを積極的に利用するリバタリアンパターナリズムを提唱した。従来のパターナリズムは対象本人の意思決定を蔑ろにする点を批判されていたが、ナッジであればあくまで自発的に選択を取らせることができるというわけだ⁴。一方、人々の思考を一方的に誘導することに危険性を認める主張も存在する。

 

『幸福な監視国家・中国』個人的要点

*この項は梶谷懐・高口康太(2019)『幸福な監視国家・中国』に拠る。

中国とテクノロジー

・世界一のEC大国となった中国。アリババがアマゾンに勝利した背景には、中国人に適した「ヒト軸のEC」がある。アマゾンのような「モノ軸のEC」は、商品間の比較検討が難しく、リテラシーの低い人間には使いにくい。アリババは「誰から買うか」を重視した設計になっており、生産者本人が動画で紹介や質問対応をするライブコマースで購入の敷居を下げている。

・ECを支えるモバイル決済。普及した背景にはウィーチャット、アリペイといったスーパーアプリの利便性がある。一つのアプリ内でメール、通話、決済、ゲーム等のミニアプリを使うことができる。巨大テック企業は購入履歴から交友関係まですべてのデータを持つ。

・ギグ・エコノミーの発達。これは中国にはもともと二億人の「無業の遊民」がいたほか、需要の大きさにより充分な高給を得られることから、参入者が確保できた。

・中国人はプライバシーに無頓着なわけではなく、割に合わない場合は世間の批判を浴びる。彼らが個人情報を提供するのは、引き換えとして得られる莫大な利便性によるものである。アリババ・グループが展開する「芝麻信用」は、顧客の行動と金融能力から信用スコアを算出する。資産の保有証明書の提出で上昇、契約違反で減少といった具合である。この信用スコアに応じて、融資の限度額が変わるといったサービスを提供する。「芝麻信用」は、未だ金融機関で審査されたことのない多数の人々が融資を受ける上で役立った。また、ギグ・エコノミーの参入者に信用スコアをつけることで、顧客と労働者双方に利便性をもたらしている。

・中国ではテクノロジーの社会実装速度が非常に早く、民間企業が強力に推し進めたものを後から共産党が認可するという形を取っている。この点で、従来的な「イノベーションにおいて、情報を分散処理する民主主義は、集中処理する独裁より優れている」という主張は的を外している。

 

「カオスでアグレッシブ」から「お行儀の良い」社会へ

・何をするにも証明書が必要なので、行政の電子化が急速に進んだ。

・社会問題である誘拐を取り締まるため、監視カメラは非常に有用であると好意的に評価されている。テック企業各社が捜索に協力している。遺失物も見つかるらしい。

中国共産党は、中国の社会信用は極めて遅れた段階にあり先進諸国に追いつく必要があると考え、「社会信用スコア」の実装を進めている。「社会信用スコア」は「金融」「懲戒」「道徳」の三つの役割がある。金融は「芝麻信用」を指す。懲戒は違反等によるスコア低下者へのサービス提供を制限する。政府公式の「信用中国」で各個人・企業に信用記録が紐付けられている。道徳は事細かな禁足事項を設定することで道徳的に振舞うことを促す。主に地方自治体で展開されている。

・「社会信用スコア」は、厳罰ではなくサービスの制限という緩やかな処罰によって、人民のルール順守を促す。道徳の禁則事項は特に村から都会へ出てきた人間に向け、村の文化が秩序を乱さないよう指導する目的がある。「社会信用スコア」はそのスコア算出がブラックボックスになっており、人々は「悪いことをしなければ関係ない」「便利だから従う」と自発的に制度を順守するようになっている。とはいえ、内実としてはまだまだ実効性のないものが多く、諸外国による監視社会への警戒は過度なものである。

・こうした制度設計によって人民を指導する「アーキテクチャ」「ナッジ」は公共にどのような影響を与えるのか?大屋雄裕は、監視システムのようなセキュリティをもたらすアーキテクチャは、市民の自由で民主的な欲求から生まれている以上、導入は避けられないと言う。結果出現しうる社会の候補の一つが、「ハイパー・パノプティコン」、万人の万人による監視である。監視が社会のいたるところで行われる結果、大衆もエリートも政府も「監視されるもの」として平等になる。その平等性への信頼によって社会の同一性と安定性が保たれる。誰もが平等に扱われるのだから、リベラリズムはこの社会を受け入れざるを得ない。

・もはやオーウェリアンな絶対的「監視者」と「我々」というイメージでは駄目で、監視の主体が多様化した流動的な「リキッド・サーベイランス」になっている。中国は、監視カメラで監視者を意識させる旧来の監視社会形成に加え、「社会信用スコア」による相互監視の実装を視野に入れている。

 

お馴染み、中国による言論統制

・独裁体制はむしろ民意を得る必要があるという逆説に苦しむ。意識習近平以前では、対処不可能な規模のネット世論に政府が譲歩するという例は数多かった。その際、批判の対象を末端の役人に限定し、共産党高官を有徳者とすることで譲歩を求めるやり方に、中華文明の思考様式を見ることができる。

習近平は反腐敗キャンペーン、強力な活動家の取締り、世論誘導員の増員を行い、ネット世論を封じ込めた。加えて、某研究のようにSNS上で削除された書き込みを記録されることを防ぐため、「不可視」の検閲を行っている。書き込みを削除するのではなく拡散やハイライト表示を防ぐことでネット炎上を防ぐ仕組みが取られている。SNS上でも信用スコアの導入が始まっている。更にテンセントや百度が開発した「ネット世論監視システム」によって炎上を未然に防ぐ。

・ネットが大衆化したことで、政権への怒りではなくありふれた話題がネット空間を満たした。習近平政権は「正能量」ポジティブ・エネルギー、つまりポジティブな言葉を流通させて社会を肯定的に捉えようと促す。

 

中国における公共性

・人民は、私利私欲に走ることが第一にある。中華における「公」には、中華思想における天の概念が今も影響を与えている。天の意思に叶う存在でなければ「公」を担うことは出来ない。少数の統治者は、生民の幸福を充足させることを義務付けられている。共産党は、様々なキャンペーンを通して公共性をもたらそうとし、人民は私利私欲の狂乱から抜け出すためにキャンペーンを支持する。中国において近代市民社会は欧米的な意味では成立しておらず、日本資本主義論争のあった日本にも似た面がある。儒教的価値観では「公」と「私」を一体化することは難しい。

 

功利と統治

・巨大テック企業や政府が人民のデータを吸い上げ、功利主義的に最も望ましいアーキテクチャを構築すれば、幸福な社会が出来上がる。それを実現する道具的合理性を、市民的公共性に支えられたメタ合理性によって吟味・コントロールすることはできないか?

・一つの動きがEUによるGDPR一般データ保護規則である。ティロールは、簡単に得られるデータはテック企業が独占すべきではなく、提供者本人に所有権があるべきだと説く。また、AIによる差別の恐れから、GDPRにはAIによるプロファイリングに対して異議を唱える権利、自動処理のみに基づいて判断が決定されない権利、説明を要求する権利等が明記されている。

・中国の徳治は道具的合理性によるアルゴリズム的公共性に相性が良い。反抗は徹底的に弾圧しつつ、民草からの要望に中央が迅速・的確に対応する。儒教的価値観による権威の付与が為される。一方、西洋諸国でリベラリズムが揺らいだ結果として一部に見られる徳倫理の復活は、アルゴリズム的公共性の呼び水になりうるかもしれない。

 

道具的合理性の暴走

自治区の話。

・著者の主張としては、市民的公共性が充分に成り立っていない状態で、後戻りのできないテクノロジーの進展と実装が為されていく状況に警鐘を鳴らすものだ。資本主義社会では、テクノロジーの利便性からどこでも中国と同様のことが起こる可能性がある。中国の監視社会について考えることは、我々のテクノロジーの使い方を考えることである。

 

雑な雑記

中国の現実を探るルポでも十分鳴らしただろうに、様々な議論を援用し更なる考察を行う本書は、新鮮かつ示唆的である。200頁超の新書とは思えない詰め込みぶり。そもそも中国が監視社会に向かっている理由の一つである「社会信用」、言ってしまえばマナーの悪さやむき出しの私利私欲といったものは、その他の中国解説本や中国でビジネス経験のある知り合いも指摘していたことで、中国が監視による近代化を図っているというのは興味深い。経済力、軍事力を大幅に増大させている中で、最後のフロンティアは人民性にあるということなのか。

中国はユートピアなのか、ディストピアなのか?著者は問い掛けはするも、結論は出さないし、そもそもそうした問自体あまり有用ではないと考えていそうだ。本書に描かれるように、中国人は自分たちの社会をユートピア/ディストピアなどと考えていない。あるのはただ現実である。我々の社会ではまだ顕在化していないために、彼らの社会を他者として見ることが出来るが、現実にテクノロジーの進展が監視社会をもたらしたとき、我々はどうそれを評価するのだろうか?功利主義的に最適化された、幸福な監視社会が実現したとしたとすれば、その住人にとっては『すばらしい新世界』である。歴史学においてよく為される言説として、「現代の価値観で過去の出来事を評価するべきではない」というものがある。では、未来の出来事はどうだろうか?今の我々は、将来的な『すばらしい新世界』の実現可能性をどのように評価するべきなのだろうか?

…もちろん、現実的な議論としては、権利の保護を主体として、監視社会における諸リスクに対応した法整備を行っていくことにはなるのだろうが。

本書でも指摘されている通り、テクノロジーの進展は監視社会を遠からず実現可能にするだろう。そして、その利便性と平等性を功利主義者もリベラルも否定することは出来ない。そう、後に残るは一部のリバタリアンだけ!ということで、リバタリアンのことも考えたい。

 

*トピックまとめは過去に読んだ資料に拠る私の解釈である。一般的に知られているものとしたが必要があれば典拠を示す

1 https://www.economist.com/leaders/2017/05/06/the-worlds-most-valuable-resource-is-no-longer-oil-but-data

2 https://www.bbc.com/japanese/43985373

3 ダニエル・カーネマン(2011)『ファスト&スロー』

4 リチャード・セイラー,キャス・サンスティーン(2008)『実践 行動経済学

オルダ・ハクスリー『すばらしい新世界』/伊藤計劃『ハーモニー』

今回の備忘録は『すばらしい新世界』と『ハーモニー』。

せっかくなので、本の話をする前にディストピアについて考えたこともまとめておく。

disclaimer: 個人の見解です。文学に学のない筆者が何とか手を伸ばそうとした産物です。

近年の潮流

 近年、ディストピア小説の人気が再燃しているようだ¹。アメリカでは、ドナルド・トランプの大統領就任によって『1984年』の売上が95倍に増加し、その他の名高いディストピア小説すばらしい新世界』等も売り上げを伸ばしているらしい²。

 ドナルド・トランプの登場でディストピア小説に手を出す一部アメリカ国民はちょっと節操がないのでは、と思わないでもないが*、今再びこのジャンルが脚光を浴びるに足る理由があるのは間違いないだろう。高度に発達したテクノロジーと一部での政治不安は、我々にディストピアの出現を容易に予感させてくれるようになった。

ユートピアディストピア

 まず、ここで取り扱いたい、ディストピアとは何か。

それは「社会秩序の維持のため徹底的に民衆が管理される社会」である。より具体的にするならば、SF的な先進技術と合理化された官僚組織を用いることによって、民衆の思考を誘導する、人口を統制するといった要素が代表作に共通する要素である(ディストピアの定義自体はあまり明瞭なものがないので、ここではあくまで一般に言われる、代表的な要素によって説明した)。

 ディストピアについて考えるためには、ユートピアから考える必要がある。ディストピアとは、語義としてユートピア(理想郷)を反転させたものであるからだ。

簡潔に述べれば、「ユートピア」の語が初めて登場したのはトマス・モアによる小説で、ラテン語で「どこにもない場所」を意味する言葉であった。『ユートピア』では、島に暮らし、私財を持たず、6時間労働で争いを嫌う人々の姿が描かれる。

モアがとった、理想社会を描くことで対比的に現実社会を批判するという手法は、その後のユートピア文学に引き継がれていくこととなる³。異境の理想郷を描く試み自体は遥か昔から存在したが、ユートピア文学は現実の世界と地続きになっているという点で一線を画すものとなっている(プラトン『国家』を例外として挙げておく)(現実社会に対応した像であるユートピアには世相の影響が色濃く現れるため、多くの興味深い分析が行われているようだ)。

モアの『ユートピア』から三世紀、ユートピア思想は社会主義思想と強い結びつきを果たしていた。そこでカール・マルクスは自らの科学的社会主義と対比させて、ロバート・オーウェンやサン=シモンの運動をユートピア社会主義空想的社会主義)と名付けた。マルクスと彼の後継者達は、共産主義という“理想郷”を目指して世界を変えようと試みていく。

 次に考えるべきは、どのようにユートピアディストピアを生んだのかという問いである。

第一に考えられるのは、人々がユートピアを諦めた帰結としてのディストピアである。ディストピア小説の先駆けとして知られるジュール・ヴェルヌ『20世紀のパリ』は1860年から100年後を描く作品だったが、科学と金融のみが価値を持つ格差社会(!)という光景は、出版社に受け入れられず、再び日の目を見たのは1994年のことである。19世紀の人々には、科学万能主義が行き着く先のディストピアは受け入れられるものではなかったようだ(この話って最初のディストピアの定義と違うじゃん、と思った人は最後まで読んで頂きたい)。一方、SF史に燦然と輝く名作ジョージ・オーウェル1984年』は1949年、オルダ・ハクスリー『すばらしい新世界』は1932年のことである。これらは発売当時から飛ぶように売れ、人々の認識が大きく変わっていることが窺える。無論、その精神性の転換は、シュペングラー『西洋の没落』大ヒットに代表されるように、世界大戦を経験したことによるものであろう。“良き時代”ベル・エポックの果てに待っていた殺し合いの惨禍は、ヨーロッパ人から希望を奪い去るのに充分であった(なお、ベル・エポックの時代にも急速に格差が拡大していたことはトマ・ピケティが指摘するところである⁴)。また、“地上の楽園”とうたわれる共産主義への警戒心が、アンチ・ユートピアに向かわせたというのも想像に難くない。

 第二に考えられるのは、ユートピアそのものにディストピアが内包されていたのではあるまいか、ということだ。実は先述したモアの『ユートピア』には、現在の価値観から見れば全く理想的ではないような、人々の生活が細かく規定され、相互監視が行われる社会が描かれているのだ。スウィフト『ガリバー旅行記』も同様の傾向を持っており、プラトン哲人政治も後にファシスト呼ばわりされることになる。言ってしまえば、ユートピアディストピアは表裏一体なのである。では、表と裏を分けるものは一体何なのだろうか?

 ここまでの話を踏まえ、私なりの解釈を述べてみる。まず、ユートピアディストピアを分けるものは観察者の目に過ぎない。モアの管理社会は、当時の価値観では間違いなく理想の社会だった。そうでなければユートピアと名付けるはずもない。時代に応じて価値観が変化した結果、管理社会は理想ならざるものとして扱われることとなったに過ぎないのだ。それが20世紀前半のことであり、管理社会を描くディストピア小説というジャンルをもたらしたのだと言える。同様に、時代の変化という観点でユートピアを考えてみよう。16世紀モアのユートピアは管理社会だったが、21世紀の我々が想像する純粋に語義的なユートピア、理想郷はどんな場所だろうか?きっと、少なくない数の現代人が豊かな自然とスローライフを思い浮かべるのではないだろうか。具体的な統計が手元にあるわけではないので実証的ではないのだが、「田舎への憧れ」や「ミニマリスト的生活」といったものを目にしたことは誰もがあるはずだ。私はそうではないので推測になってしまうが、理想郷に求めるのは現実の生活で得られないものであり、現代人の生活とは資本主義的な息つく暇のない生産・消費のサイクルである。従って、現代の理想郷が自然的・自給自足的生活を意味しても不思議はない(人によっては、コミュニティへの帰属や、労働の消滅を挙げることもあるかもしれない)。いずれにせよ、ユートピアとは正しく世相の鏡なのであり、時代によって変わるものだ。そしてそこには、モアが当時の社会を相対化して批判したように、「今」に対する批判的な思いが込められている。そしてそれは、ディストピアも同じであるはずだ。現代におけるディストピアは、冒頭のように管理社会を描いたものである。それは、「今」に対する批判が、「未来」への恐れという形で描かれたものだと言えよう。そして、描かれ方も時代に応じて変わるはずだ。『20世紀のパリ』で描かれたのは科学と金融のみが価値を持つ世界だったが、それは19世紀フランスの産業化を見たジュール・ヴェルヌが、「未来」への恐れという形で当時の社会を論じたものではないか。そして、我々が知るように、彼が描いた「未来」はおおかた出現し、新たな脅威として管理社会が適材となったのだ。

my結論

 疲れたので結論だけ。最終的な定義。現実社会に対する批判が、理想を描くことで表出されればユートピアであり、将来的な破綻を描くことで表出されればディストピアとなる。何が理想となるか、破綻となるかは時代に応じて変化するが、ディストピアにこれからも通底するであろう特徴として、未来を描く以上必ずSFであることが挙げられる。現代までのディストピアにはdehumanizationが一貫して描かれるが、それが今後も変化しないとは限らない。我々が人間性を喪えば、また別の題材が選ばれるかもしれない。

本題の読書記録は疲れたのでまた今度

雑も何もここまですべてが雑記なのだが、雑記

 小説の感想文で良かったのに、だらだらと考えてしまった。私としてはこの備忘録は読んだ本に加えて自分の思考の備忘録でもあるので、お許しいただきたい。ほんの少し調べただけで分かったことだが、ユートピア/ディストピア思想はその残滓まで視野に収めようとすれば、フィクション世界のいたるところに影響を及ぼす巨大な系譜である。私は文学に全く明るくないためにこの機会を用いて手を広げようとしたのだが、とんでもない底の知れなさを思い知ることとなった。また、ディストピアについて考えていた中で、結論が二転三転した覚えがある。一度考えたのは登場人物の主観次第ではないか、というものだが、もしそうなら映画『ミッドサマー』等で描かれる宗教共同体は当人からすれば幸せなのだからユートピアに分類せざるを得なくなる。それではどうもしっくりこないので、「その時代の人々の主観」という風に修正した。次回はその他のディストピア小説を端的に読むか、現実の問題として監視社会の出現を語った新書か何かを読むかもしれない。それに、ユートピアの話をするならノージックを読まなければならないはずだ…メタ・ユートピアリバタリアニズムなら新反動主義の話にも繋げられそうだし、いいかもしれない。

 

1 https://wired.jp/2017/03/09/dystopian-fiction-why-we-read/

2 https://www.nytimes.com/2017/01/25/books/1984-george-orwell-donald-trump.html?_r=0

3 http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/ronza.htm

4トマ・ピケティ(2013)『21世紀の資本

*どうやら政府高官が『1984年』を思わせる発言をしたようだ。それは確かに読むかもしれない

蓬郷巌(1976)『岡山の県政史』

 今回の備忘録は『岡山の県政史』.

 蓬郷巌『岡山の県政史』は日本文教出版の岡山文庫シリーズの69冊目として刊行された文庫本である.発行は1976年である.

岡山文庫について

 岡山文庫は地方の出版社が発行する郷土に関する書籍の一種であり,2020年4月9日時点では,累計で316巻が発行されている.ジュンク堂書店池袋店9階の「ふるさとの棚」コーナーを見る限りでは茨城や福島をはじめとした各地で類似のシリーズが発行されている.なお,岡山文庫の数は(ジュンク堂の中では)どうやら多いようで,他県の書籍コーナーに比べて場所をとっている.郷土の「すべて」を伝えんとする本が多く生み出され,さらには700kmも離れた首都東京でも容易に入手できる文化は,岡山県民として誇らしい気分になる(もはや「教育県」の実態を失って久しいことには目をつぶろう……).

『岡山の県政史』について

 本書は1976年発行のため,当然ながらそれ以降の県政を扱っていない.本書の最後は,あの長い長野県政の初期,(今は亡き)国鉄山陽新幹線が博多まで全通したばかりのころで終わっている.長野県政の後半(このころ瀬戸大橋開通)や石井・伊原木両知事の施策を知りたければ別の書籍にあたる必要がある.また,県政史であるから,明治維新より前は扱われない.

 ちなみに,県政以前については同シリーズの市川俊介『吉備ものがたり』上下巻が扱っている.別に,山川出版社の『岡山県の歴史』を読めばよいのだろうが…….

 なお,本書が写真や表に富んでいる点は特筆すべきであろう.巻末には県政年表や人口・予算額・県政要人一覧表も付けられている.

県政史概観*1

 維新直後のころは,行政・租税・教育・警察の諸制度が目まぐるしく変わっていた.当時の諸政策が岡山県の観点から記されているため,県民から行政まで,明治政府の政策への対応・適応に苦労していた様子がみられる.県民の不満も大きかったようで,備前・美作では農民が税制改正や徴兵令に反対する一揆を起こしている.地主の地租改正への抵抗も強く,県内と中央との板挟みにあった当時の石部県令は免職された.

 この地租改正問題を強権的に解決したのが高崎県令であった.自由民権運動のころに新聞や雑誌をドシドシ弾圧しながらも,殖産興業や士族授産でその鉄腕をふるった.また,高崎の時代にはコレラ流行や水害が起こり,これにも対処した.非常に限定的ながらも県会を通じて県民の参政も可能になったし,後楽園一般開放や県庁(いまの天神山文化プラザのあたり)建設もなされた.高崎の県政はまさに激動の時代であった.

 こののち,明治後半には,銀行の発展や鉄道整備(中国鉄道・岡電整備に山陽鉄道国有化),宇野港の築港などが進んでいく.また,当時の岡山県産米はえらく評価が低かった.これを是正するために県は農業の近代化に精力的に取り組んだ.さらにはこの時代には江戸から続く児島湾(穴海)の大規模干拓が進められた.金策に苦心した末,大阪の藤田という豪商が中心となった.また,教育面で言えば第六高等学校を広島との誘致合戦で勝ち取ったのは注目すべき点である.

 米騒動や大正・世界恐慌のころには岡山では防貧を目的とした社会福祉制度(のちの民生委員)が制定された.国政では庭瀬出身の犬養毅が活躍して久しいころであるが,大正の県会は,当初は犬養のいた国民党が優位であった.しかし,のちに政友会が優位になる.昭和に入ると徐々に民政党も勢力を伸ばした.また,このころ県知事は頻繁に交代した.

 岡山が「教育県」と呼ばれたのは,昭和初期のころであった.当時は県財政に見合わぬほど多くの中等学校を整備し,中等教育の就学率が高まっていた.とりわけ,高等女学校の充実は著しく,就学率は全国首位であった.また,このころ高梁川が一本になり,酒津から東に流れた旧河道には多くの工場(倉敷紡績や水島の三菱飛行機)が建設された.

 大戦前には岡山県世界恐慌の影響を受ける.困窮する農村の救済のために県は積極財政をとったが,その負担は重く,破綻の危機がささやかれるほどであった.また,数年おきに追い打ちをかけるように,室戸台風旱魃の被害を受けた.

 大戦中の県民は積極的に国家の戦争方針に従った.特に金属供出への協力は全国でも大きい方であり,白金の供出量は日本一である.大戦の後半になると水島の工場群を皮切りに,岡山市へも空襲が行われた.

 敗戦を迎える岡山県では,玉音放送を前に治安悪化に対する対策が取られたが,騒乱は起こらなかった.威信の低下した行政・警察は進駐軍の威光を借りながら,戦後の混乱を収拾する.戦後の改革が進む中で,初の公選知事に就任したのは西岡であった.西岡県政は基本的に戦後改革への対応であったが,旭川ダムに関しては,県が日本発送電の湯原ダムと同時に整備した.

 次に就任したのが名知事と名高い三木行治である.三木は学者グループを重用しながらもリーダーシップを発揮した.三木は昭和の大合併に先駆けて県内の市町村合併を促進し,既存4市(岡山・倉敷・津山・玉野)以外にも多数の新市が誕生した.三木の業績は現在の県庁建設や国体の成功など,多岐にわたるが,最大の功績は水島開発と企業誘致の成功であろう.三菱石油をはじめ川鉄などの大企業を呼び寄せて「誘致キング」とも呼ばれた.

 三木県政最後にして最大の挫折は水島での成功を受けて普段の覚悟で提示した県南広域都市(百万都市)の失敗といってよいだろう.この計画は岡山・倉敷両市長などの抵抗を受けて,両氏を中心とした合併という妥協に帰着した.

 三木の次は加藤武徳である.加藤県政は井笠地区の工業地帯整備や交通インフラの整備を進めた.山陽新幹線中国道山陽道の整備を筆頭に各種幹線交通の整備を計画した.この中には井原線や瀬戸大橋,国道の改良も含まれた.瀬戸大橋誘致は精力的に行われ,新全総で採用された.なお,加藤は農業開発や公害対策にも取り組んでいる.

 本書の最後に現れるのが,自民党系の加藤を破って当選した元自治事務次官・長野士郎である.長野県政は三木・加藤県政の産業重視の方針から,県民の福祉を重視する政策に転換している.その中で生み出されたのが福祉県岡山の象徴たる吉備高原都市であった.

非常に雑な,雑で仕方がない,雑感

 まず(逃げのようであるが),県政史概観の項すらも一糸まとわぬ主観の塊であることと,そもそも岡山県史に関して勉強が圧倒的に不足していること,歴史学の専門教育を受けていないこととの3点を断っておきたい.自分で見返しても粗末な備忘録である.

 さて,本書を眺めたのは,個人的な関心からである.私が個人的に興味を持っているのが戦後,特に三木県政下の百万都市構想であるから,その点について本書のみでは当然ながら不足がある(当該構想に割かれたページ数は2である).県南広域都市構想の概略を知るには先行研究をはじめ県史や倉敷市史,当時の行政文書など多くの文献にあたる必要がある(と思われる).

 しかしながら,私個人の関心と射程が異なる点は多くの人には関係がない.そうしてみれば,本書は長野士郎知事以前の県政史全体についてサッと概観するにはもってこいの本である.なにより,ページ数が少ない.本編は上下二段の文庫本で159ページである.文庫本であるからコンパクトである.県政史に興味をもった人が第一に触れるのには良いだろう.誰も数冊組の『岡山県史』を持ち運びたくはない(そもそも入手できるだろうか?カバンが壊れないだろうか?).ただ,改めて言うが,出版年が相当昔であるため,様々な面に古さは否めない.その点に留意するほうがよい(自戒を込めて).

参考文献

蓬郷巌(1976)『岡山の県政史』岡山市日本文教出版

*1:この項は蓬郷(1976)によっている.