Let us put it out

複数名が読んだ本を記録するブログ。

オルダ・ハクスリー『すばらしい新世界』/伊藤計劃『ハーモニー』

今回の備忘録は『すばらしい新世界』と『ハーモニー』。

せっかくなので、本の話をする前にディストピアについて考えたこともまとめておく。

disclaimer: 個人の見解です。文学に学のない筆者が何とか手を伸ばそうとした産物です。

近年の潮流

 近年、ディストピア小説の人気が再燃しているようだ¹。アメリカでは、ドナルド・トランプの大統領就任によって『1984年』の売上が95倍に増加し、その他の名高いディストピア小説すばらしい新世界』等も売り上げを伸ばしているらしい²。

 ドナルド・トランプの登場でディストピア小説に手を出す一部アメリカ国民はちょっと節操がないのでは、と思わないでもないが*、今再びこのジャンルが脚光を浴びるに足る理由があるのは間違いないだろう。高度に発達したテクノロジーと一部での政治不安は、我々にディストピアの出現を容易に予感させてくれるようになった。

ユートピアディストピア

 まず、ここで取り扱いたい、ディストピアとは何か。

それは「社会秩序の維持のため徹底的に民衆が管理される社会」である。より具体的にするならば、SF的な先進技術と合理化された官僚組織を用いることによって、民衆の思考を誘導する、人口を統制するといった要素が代表作に共通する要素である(ディストピアの定義自体はあまり明瞭なものがないので、ここではあくまで一般に言われる、代表的な要素によって説明した)。

 ディストピアについて考えるためには、ユートピアから考える必要がある。ディストピアとは、語義としてユートピア(理想郷)を反転させたものであるからだ。

簡潔に述べれば、「ユートピア」の語が初めて登場したのはトマス・モアによる小説で、ラテン語で「どこにもない場所」を意味する言葉であった。『ユートピア』では、島に暮らし、私財を持たず、6時間労働で争いを嫌う人々の姿が描かれる。

モアがとった、理想社会を描くことで対比的に現実社会を批判するという手法は、その後のユートピア文学に引き継がれていくこととなる³。異境の理想郷を描く試み自体は遥か昔から存在したが、ユートピア文学は現実の世界と地続きになっているという点で一線を画すものとなっている(プラトン『国家』を例外として挙げておく)(現実社会に対応した像であるユートピアには世相の影響が色濃く現れるため、多くの興味深い分析が行われているようだ)。

モアの『ユートピア』から三世紀、ユートピア思想は社会主義思想と強い結びつきを果たしていた。そこでカール・マルクスは自らの科学的社会主義と対比させて、ロバート・オーウェンやサン=シモンの運動をユートピア社会主義空想的社会主義)と名付けた。マルクスと彼の後継者達は、共産主義という“理想郷”を目指して世界を変えようと試みていく。

 次に考えるべきは、どのようにユートピアディストピアを生んだのかという問いである。

第一に考えられるのは、人々がユートピアを諦めた帰結としてのディストピアである。ディストピア小説の先駆けとして知られるジュール・ヴェルヌ『20世紀のパリ』は1860年から100年後を描く作品だったが、科学と金融のみが価値を持つ格差社会(!)という光景は、出版社に受け入れられず、再び日の目を見たのは1994年のことである。19世紀の人々には、科学万能主義が行き着く先のディストピアは受け入れられるものではなかったようだ(この話って最初のディストピアの定義と違うじゃん、と思った人は最後まで読んで頂きたい)。一方、SF史に燦然と輝く名作ジョージ・オーウェル1984年』は1949年、オルダ・ハクスリー『すばらしい新世界』は1932年のことである。これらは発売当時から飛ぶように売れ、人々の認識が大きく変わっていることが窺える。無論、その精神性の転換は、シュペングラー『西洋の没落』大ヒットに代表されるように、世界大戦を経験したことによるものであろう。“良き時代”ベル・エポックの果てに待っていた殺し合いの惨禍は、ヨーロッパ人から希望を奪い去るのに充分であった(なお、ベル・エポックの時代にも急速に格差が拡大していたことはトマ・ピケティが指摘するところである⁴)。また、“地上の楽園”とうたわれる共産主義への警戒心が、アンチ・ユートピアに向かわせたというのも想像に難くない。

 第二に考えられるのは、ユートピアそのものにディストピアが内包されていたのではあるまいか、ということだ。実は先述したモアの『ユートピア』には、現在の価値観から見れば全く理想的ではないような、人々の生活が細かく規定され、相互監視が行われる社会が描かれているのだ。スウィフト『ガリバー旅行記』も同様の傾向を持っており、プラトン哲人政治も後にファシスト呼ばわりされることになる。言ってしまえば、ユートピアディストピアは表裏一体なのである。では、表と裏を分けるものは一体何なのだろうか?

 ここまでの話を踏まえ、私なりの解釈を述べてみる。まず、ユートピアディストピアを分けるものは観察者の目に過ぎない。モアの管理社会は、当時の価値観では間違いなく理想の社会だった。そうでなければユートピアと名付けるはずもない。時代に応じて価値観が変化した結果、管理社会は理想ならざるものとして扱われることとなったに過ぎないのだ。それが20世紀前半のことであり、管理社会を描くディストピア小説というジャンルをもたらしたのだと言える。同様に、時代の変化という観点でユートピアを考えてみよう。16世紀モアのユートピアは管理社会だったが、21世紀の我々が想像する純粋に語義的なユートピア、理想郷はどんな場所だろうか?きっと、少なくない数の現代人が豊かな自然とスローライフを思い浮かべるのではないだろうか。具体的な統計が手元にあるわけではないので実証的ではないのだが、「田舎への憧れ」や「ミニマリスト的生活」といったものを目にしたことは誰もがあるはずだ。私はそうではないので推測になってしまうが、理想郷に求めるのは現実の生活で得られないものであり、現代人の生活とは資本主義的な息つく暇のない生産・消費のサイクルである。従って、現代の理想郷が自然的・自給自足的生活を意味しても不思議はない(人によっては、コミュニティへの帰属や、労働の消滅を挙げることもあるかもしれない)。いずれにせよ、ユートピアとは正しく世相の鏡なのであり、時代によって変わるものだ。そしてそこには、モアが当時の社会を相対化して批判したように、「今」に対する批判的な思いが込められている。そしてそれは、ディストピアも同じであるはずだ。現代におけるディストピアは、冒頭のように管理社会を描いたものである。それは、「今」に対する批判が、「未来」への恐れという形で描かれたものだと言えよう。そして、描かれ方も時代に応じて変わるはずだ。『20世紀のパリ』で描かれたのは科学と金融のみが価値を持つ世界だったが、それは19世紀フランスの産業化を見たジュール・ヴェルヌが、「未来」への恐れという形で当時の社会を論じたものではないか。そして、我々が知るように、彼が描いた「未来」はおおかた出現し、新たな脅威として管理社会が適材となったのだ。

my結論

 疲れたので結論だけ。最終的な定義。現実社会に対する批判が、理想を描くことで表出されればユートピアであり、将来的な破綻を描くことで表出されればディストピアとなる。何が理想となるか、破綻となるかは時代に応じて変化するが、ディストピアにこれからも通底するであろう特徴として、未来を描く以上必ずSFであることが挙げられる。現代までのディストピアにはdehumanizationが一貫して描かれるが、それが今後も変化しないとは限らない。我々が人間性を喪えば、また別の題材が選ばれるかもしれない。

本題の読書記録は疲れたのでまた今度

雑も何もここまですべてが雑記なのだが、雑記

 小説の感想文で良かったのに、だらだらと考えてしまった。私としてはこの備忘録は読んだ本に加えて自分の思考の備忘録でもあるので、お許しいただきたい。ほんの少し調べただけで分かったことだが、ユートピア/ディストピア思想はその残滓まで視野に収めようとすれば、フィクション世界のいたるところに影響を及ぼす巨大な系譜である。私は文学に全く明るくないためにこの機会を用いて手を広げようとしたのだが、とんでもない底の知れなさを思い知ることとなった。また、ディストピアについて考えていた中で、結論が二転三転した覚えがある。一度考えたのは登場人物の主観次第ではないか、というものだが、もしそうなら映画『ミッドサマー』等で描かれる宗教共同体は当人からすれば幸せなのだからユートピアに分類せざるを得なくなる。それではどうもしっくりこないので、「その時代の人々の主観」という風に修正した。次回はその他のディストピア小説を端的に読むか、現実の問題として監視社会の出現を語った新書か何かを読むかもしれない。それに、ユートピアの話をするならノージックを読まなければならないはずだ…メタ・ユートピアリバタリアニズムなら新反動主義の話にも繋げられそうだし、いいかもしれない。

 

1 https://wired.jp/2017/03/09/dystopian-fiction-why-we-read/

2 https://www.nytimes.com/2017/01/25/books/1984-george-orwell-donald-trump.html?_r=0

3 http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/ronza.htm

4トマ・ピケティ(2013)『21世紀の資本

*どうやら政府高官が『1984年』を思わせる発言をしたようだ。それは確かに読むかもしれない